2014年3月27日木曜日

こういう事は言うべきじゃないけれど

近頃はお酒を飲めない、という人が多い。

大体が体質的に飲めないと言うか、おいしいと思わない、と言う理由が多い。

別に飲めなくても好きじゃなくてもよいのだが、それが正確さを欠く物言いである事が

気になるのである。

まず、体質的に飲めない、という人の数が年代別に差がありすぎる。

本当にお酒が飲めない人はいる。しかし、体質というものがある程度以上

遺伝的なものである以上、その絶対数が世代別にかけ離れるという事はおかしいのである。

日本人がDNAとしてお酒にそれ程強くない、分解酵素を多く有してない、というのは

自分も含めてある信用できる情報だと思う。

しかし、弱い事を飲めないと言うのは決して同じではないし、それは要するに嘘という事になる。

自分が苦手な事を嘘をついて免れるというのはやはり誠意に欠けると思うのである。

また、好きじゃない・弱い=飲めないと自身を定義する人間の思考回路や言語能力の幼稚さに

僕は少なからず呆れている。

そして、医者共の言う、多くの日本人は本来飲めない、みたいな物言いを真に受けてる人が

多い事にも呆れる。ならば何故僕や彼らはお酒を飲み続けているのか。

お酒に強くなる、という事は確かにないのだろう(僕はつまみ(塩分)と水を

供給しながらでないとすぐ潰れる)。

しかし、慣れる、というのは体質的に強くなるというのとは丸きり別の話である。

拷問や残業に慣れる事はあっても苦痛がなくなる訳ではない。

苦痛である事とそれに慣れるというのは別個の問題である。

そもそも、二言目には「規則正しい生活を」などと寝言を繰り出す輩

(それができたら苦労はないのだ)の言う事を自分に取って都合がいいからといって

信じるナイーブさがまず問題である。

第二に、おいしくないから、という理由で飲まない人間は根本的な勘違いをしていると思う。

お酒はおいしいから飲む、という類のものではない。

儀式や祭り(祭りは儀式だが)に於いて煙を炊く事と酒を飲む事は

どの国、どの文化圏に於いてもデフォルト設定である。

煙と液体、即ち分離不可能なものを介してお互いの同一性を獲得する事、

引いてはあの世とこの世の境界を曖昧にする事が儀式の常であり、

また人間の定義(死者を「存在」と捉える事)でもある。

酒はあるものとあるものの距離を縮める、というのがその役割である。

嗜好の次元ではない。


まあそんな事はどうでも良いが、兎に角 酒を飲むことを好き嫌いのレベルで論じる幼稚さと、

弱い事を飲めないとする嘘には少なからず憤りを感じるのである。

言うなればお酒は毒である。

そして毒も飲めない人間と面白い事ができるとは僕は到底思えないのである。

お酒が本当に飲めない人はいる(本当に具合が悪くなる)。

しかし、すぐ酔っ払って吐く、くらいの人間が「飲めない」、と言うのは

本当に飲めない人に対しても不誠実だと思う。












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