2020年1月11日土曜日

1月11日

今日はビーガンについて適当に書く。

まず僕は捕鯨には反対だ。

何のことかわからないかも知れないが、菜食主義者やビーガンにはいつも捕鯨を想起させられる。

鯨をうまいと思わないし、日本の捕鯨は文化だというのもどうも嘘っぱちだ。

今時 鯨で糊塗をしのいでいるような人達などいやしないのである。

捕鯨の主張はただの利権だ。

ついでに言えばゴミの分別も無駄だが、これについては明日にでも書こう。

とにかく僕は捕鯨には反対だが、鯨の知能だとかそういう理由は支持しない。

知能が高いから殺すなと言うなら、

低脳だからインディアンは虐殺され、日本は原爆を落とされたという事になるんじゃなかろうか(まぁ実際そういう理由なのだが)。

ビーガンも同じで、牛肉1kgを生み出すのに必要なエネルギーや、生み出される二酸化炭素排出量(=環境負荷)がヤバい→食べる量を減らすべし、と、このような我々人間本位の理屈は受け入れる事ができる。

とはいえその後ろに感じざるを得ないキリスト教的な「地球の支配者として」目線はどうも好きになれないが。

そして「命を奪わない生き方」みたいな理由はナイーブというか傲慢というか、

仮に菜っ葉や豆(根が生きていればまた生えてくる)だけを食べていても、

そこに群がる害虫は殺さざるを得まいし、我々の一部たる白血球は病原菌を日夜 殺して回っているし、最期には逆に我々が冒されて死ぬのである。

なので鯨にせよ牛にせよ、倫理や罪悪感に依拠する理屈には耳を貸す気になれない。

逆に言えば、無差別テロ犯みたいな死刑にするしかないような被害をもたらした人間でも、それが家族や友人であれば、わざわざ死刑処分に賛成したりはしないだろう。 

人間本位の卑しい理屈のみが耳を傾けるに値する。














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